浜松の産業の歴史

文化を産む産業

  • 明治1868~1912

    日本の夜明けは、
    工業都市浜松の夜明けでもあった

    江戸時代、上州館林(たてばやし)から伝えられた結城縞の技術。
    これを習得した小山みいは、明治に入り遠州織物の発展に尽くします。
    しかし生産額は少なく、笠井中心の地方的なものでした。
    明治 15 年、同業者は団結し、地方的な商圏から全国に拡大する努力が始まります。
    やがて、山梨・長野・東京、さらに北海道まで進出していきます。
    日本の夜明けは、工業都市浜松の夜明けでもあった
    • 楽器産業

      このころ、大阪から浜松の病院の器械修理に派遣されてきた山葉寅楠がいました。
      明治 20 年、寅楠は元城小学校にあったアメリカ製オルガンの修理に成功します。
      これをきっかけに翌 21 年、山葉風琴製造所(現ヤマハ株式会社)を設立し、オルガンの生産に着手します。
      明治 30 年、寅楠は日本楽器製造株式会社を創立。
      33 年には技師河合小市のピアノアクションの完成で、ピアノ製造に成功します。

      楽器産業
    • 繊維産業

      一方、繊維産業は明治 22 年、東海道線の開通で中心を笠井から浜松に移します。業界は組合をつくり、織機の機械化と普及、化学染料の採用などを進め、遠州織物の評価を高めていきます。
      明治 33 年、木綿中形株式会社が発足。
      同年に池谷七蔵が形付機を考案し、日本形染株式会社と社名を改めます。こうして、浜松の2つの産業がここに目覚めたのです。

      繊維産業
  • 大正1912~1926

    進化しようとする力は、
    困難をもバネにした

    明治 40 年からの不況で、産業界は一時停滞します。特に楽器産業は明治天皇の崩御で、一年間の音楽活動停止という二重の痛手に見舞われます。
    しかし大正3年、日本楽器はハーモニカ製造を始めます。 蝶印ハーモニカと名づけられた小さな楽器が、またたく間に全国を風靡。製造後わずか一年で輸出を開始し、会社立て直しの突破口を開いたのです。

    また、遠州織物業界も生産高を着実に伸ばしていきます。
    これは全国一の力織機の普及や、小規模工場での需要に応じた 多種多様の生産など、経済変化への対応が早かったためです。

    進化しようとする力は、困難をもバネにした
  • 昭和1926~1989

    悲しみと焼け野原の大地から
    「やらまいか」と人々は立ち上がった

    恐慌に開けた時代、昭和。日本楽器は労働争議による経営難からの再建をかけ、昭和2年、川上嘉市を社長に迎えます。同年、河合小市は愛弟子7人と独立し、河合楽器研究所(現株式会社河合楽器製作所)を設立。ピアノの製造を始めます。
    織物業界は衣服の洋装化に伴って、広幅化への転換などでこの不況に対処します。昭和7年、経済界の好況を反映し綿織物の輸出が増加、昭和 12 年まで驚異的発展をします。

    日本楽器は、パイプオルガンなど新しい楽器製造を次々に成功させ、河合楽器もオルガンの製造に着手します。
    昭和 20 年6月、浜松大空襲。浜松は焦土と化し、先人たちの努力は灰になってしまいます。

    悲しみと焼け野原の大地から「やらまいか」と人々は立ち上がった
    • オートバイ産業

      しかし、浜松の産業は次々に再建し、戦前をはるかに上回る力をつけていきました。中でも戦後の混乱から、本田宗一郎のアイデアで 生まれたオートバイ産業は、工業都市浜松を不動のものにします。
      戦後、全国に40 社、その内浜松には 30 社にも達したオートバイメーカー。そのし烈な企業戦争の末、ポンポンの生みの親、本田宗一郎による本田技研工業。織機メーカーとして明治から昭和まで、浜松の産業を支えた鈴木道雄によるスズキ。そして日本楽器から分かれたヤマハ発動機が生き残り、今も世界を雄飛しています。

      オートバイ産業

浪漫を企てた巨人たち

人間が火を手にしたとき文明が始まった。
初めて火を手にしたのはだれだろう。
どんな思いで火を手にしたのだろう。
浜松の巨人たち。
彼らにはその気持ちが分かるはずだ。
そして巨人たちは、わたしたちに呼び掛ける。
「俺と一緒に、さあやろうじゃないか」・・・。
「やらまいか」と・・・。

  • 山葉寅楠

    山葉寅楠

    やまはとらくす

    明治20年、米1斗1円、アメリカ製オルガン45円。
    寅楠はこのオルガンを修理する前に構造を模写し、「自分なら3円で作る自信がある」と語る。
    そして数ヶ月後にはオルガンを完成。浜松の楽器産業の基盤をつくる。

  • 河合小市

    河合小市

    かわいこいち

    11 歳で山葉風琴製造所に入所。
    小市の才能が寅楠の指導を吸収し、やがて「発明小市」と呼ばれる。
    そして、輸入に頼っていたピアノアクションの製作に成功。寅楠は小市の手を、深い感動をもって握りしめたという。

  • 本田宗一郎

    本田宗一郎

    ほんだそういちろう

    当時のエンジンは最高4千回転。「8千回転のエンジンを・・・」宗一郎の言葉にだれもが無理だと言った。
    「それならやってみよう」と宗一郎。ついに夢のエンジンを完成させ、過酷なマン島レースで優勝。世界に飛躍した。

  • 鈴木道雄

    鈴木道雄

    すずきみちお

    鈴木式織機の発明など、特許・実用新案は 120 件余り。
    しかし、織機をつくるだけでは満足できず、新分野への進出を夢見ていた。
    そして、その対象を自動車に絞り、軽四輪のトップメーカーになった。

  • 川上嘉市

    川上嘉市

    かわかみかいち

    浜松市名誉市民。枕元にメモを置き、アイデアが浮かぶと書き取り、翌日には実行する即日実行主義で、最悪の事態の日本楽器を再建。
    「世の中の塩となれ」という聖書の一節を処世訓とし、青少年教育や文化にも偉大な足跡を残した。

  • 池谷七蔵

    池谷七蔵

    いけやしちぞう

    手作業であった染め物の形付けの機械化を目指し、日夜寝食を忘れ研究する。
    ついに片面形糊付機を発明。
    その後も木綿中形株式会社の技師長として、自動製形機、両面形糊付機や丸形染工機を次々に発明した。

  • 宮本甚七

    宮本甚七

    みやもとじんしち

    浜松商工会議所第3代会頭。木綿中形株式会社(現在の日本形染株式会社)を設立。綿織物の中国大陸への輸出と、遠州織物の機械化を実現した。
    円満な人格と強い責任感で、日本楽器製造株式会社の創立や再建などにも貢献した。

  • 高柳信蔵

    高柳信蔵

    たかやなぎのぶぞう

    永久社を創立し、共同で原料の購入・漂白・染色を行い、永久印という商標で品質の保証と統一を図る。
    これによって、大資本に対抗するとともに、遠州織物に国際商品という新しい道を切り開いた。

  • 山本又六

    山本又六

    やまもとまたろく

    浜松市名誉市民。浜松の織物工業の機械化・近代化と技術者の養成に力を注ぐ。
    浜松工業学校(現在の浜松工業高校) 初代校長として青少年の指導・育成にあたる。染色法を完成させ、50 年間にわたり浜松の繊維染色産業に貢献した。

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