一方、繊維産業は明治 22 年、東海道線の開通で中心を笠井から浜松に移します。業界は組合をつくり、織機の機械化と普及、化学染料の採用などを進め、遠州織物の評価を高めていきます。
明治 33 年、木綿中形株式会社が発足。
同年に池谷七蔵が形付機を考案し、日本形染株式会社と社名を改めます。こうして、浜松の2つの産業がここに目覚めたのです。
明治 40 年からの不況で、産業界は一時停滞します。特に楽器産業は明治天皇の崩御で、一年間の音楽活動停止という二重の痛手に見舞われます。
しかし大正3年、日本楽器はハーモニカ製造を始めます。 蝶印ハーモニカと名づけられた小さな楽器が、またたく間に全国を風靡。製造後わずか一年で輸出を開始し、会社立て直しの突破口を開いたのです。
また、遠州織物業界も生産高を着実に伸ばしていきます。
これは全国一の力織機の普及や、小規模工場での需要に応じた 多種多様の生産など、経済変化への対応が早かったためです。
恐慌に開けた時代、昭和。日本楽器は労働争議による経営難からの再建をかけ、昭和2年、川上嘉市を社長に迎えます。同年、河合小市は愛弟子7人と独立し、河合楽器研究所(現株式会社河合楽器製作所)を設立。ピアノの製造を始めます。
織物業界は衣服の洋装化に伴って、広幅化への転換などでこの不況に対処します。昭和7年、経済界の好況を反映し綿織物の輸出が増加、昭和 12 年まで驚異的発展をします。
日本楽器は、パイプオルガンなど新しい楽器製造を次々に成功させ、河合楽器もオルガンの製造に着手します。
昭和 20 年6月、浜松大空襲。浜松は焦土と化し、先人たちの努力は灰になってしまいます。
人間が火を手にしたとき文明が始まった。
初めて火を手にしたのはだれだろう。
どんな思いで火を手にしたのだろう。
浜松の巨人たち。
彼らにはその気持ちが分かるはずだ。
そして巨人たちは、わたしたちに呼び掛ける。
「俺と一緒に、さあやろうじゃないか」・・・。
「やらまいか」と・・・。
やまはとらくす
明治20年、米1斗1円、アメリカ製オルガン45円。
寅楠はこのオルガンを修理する前に構造を模写し、「自分なら3円で作る自信がある」と語る。
そして数ヶ月後にはオルガンを完成。浜松の楽器産業の基盤をつくる。
かわいこいち
11 歳で山葉風琴製造所に入所。
小市の才能が寅楠の指導を吸収し、やがて「発明小市」と呼ばれる。
そして、輸入に頼っていたピアノアクションの製作に成功。寅楠は小市の手を、深い感動をもって握りしめたという。
ほんだそういちろう
当時のエンジンは最高4千回転。「8千回転のエンジンを・・・」宗一郎の言葉にだれもが無理だと言った。
「それならやってみよう」と宗一郎。ついに夢のエンジンを完成させ、過酷なマン島レースで優勝。世界に飛躍した。
すずきみちお
鈴木式織機の発明など、特許・実用新案は 120 件余り。
しかし、織機をつくるだけでは満足できず、新分野への進出を夢見ていた。
そして、その対象を自動車に絞り、軽四輪のトップメーカーになった。
かわかみかいち
浜松市名誉市民。枕元にメモを置き、アイデアが浮かぶと書き取り、翌日には実行する即日実行主義で、最悪の事態の日本楽器を再建。
「世の中の塩となれ」という聖書の一節を処世訓とし、青少年教育や文化にも偉大な足跡を残した。
いけやしちぞう
手作業であった染め物の形付けの機械化を目指し、日夜寝食を忘れ研究する。
ついに片面形糊付機を発明。
その後も木綿中形株式会社の技師長として、自動製形機、両面形糊付機や丸形染工機を次々に発明した。
みやもとじんしち
浜松商工会議所第3代会頭。木綿中形株式会社(現在の日本形染株式会社)を設立。綿織物の中国大陸への輸出と、遠州織物の機械化を実現した。
円満な人格と強い責任感で、日本楽器製造株式会社の創立や再建などにも貢献した。
たかやなぎのぶぞう
永久社を創立し、共同で原料の購入・漂白・染色を行い、永久印という商標で品質の保証と統一を図る。
これによって、大資本に対抗するとともに、遠州織物に国際商品という新しい道を切り開いた。
やまもとまたろく
浜松市名誉市民。浜松の織物工業の機械化・近代化と技術者の養成に力を注ぐ。
浜松工業学校(現在の浜松工業高校) 初代校長として青少年の指導・育成にあたる。染色法を完成させ、50 年間にわたり浜松の繊維染色産業に貢献した。